2013年6月17日月曜日

慰安婦発言を「恥の文化」「罪の文化」という観点で考えてみる

ちょっと前の橋下徹の慰安婦発言について。発言そのものよりも、その後のらりくらりと言い訳しながらも撤回しなかったり、マスコミの誤報だとか人のせいにしたり。で、アメリカが結構毅然とした態度に出てきたら結局謝ったんだっけ?途中から追うのも面倒になって最後どうなったのか知らないですけど、とにかく橋下という人は自分の価値を下げたということは確かでしょう。それだけならまだ勝手にやってくれればいいんですけど、日本という国の価値まで一緒に巻き込むのは本当にやめてほしいです。
最後結局どうなったか知りませんが、少なくとも初期に橋下の言ってたことは「戦争の際に兵士の性処理に女性を利用した国はほかにもある。日本だけが避難されるのはおかしい。」ということで。これってスピード違反で捕まった人が「なんで俺だけ捕まるんだよ?他にも違反してる奴いるだろ?」と逆ギレしてるのとまったく同じにしか僕には見えないのですが。そういう趣旨のことをtwitterに書いたらネトウヨっぽい人が「戦後60年スピード違反で日本だけが捕まってるならそりゃ逆ギレもするさ!」と、僕の指摘した問題点を分かり易くそのまま居直って再生産しただけのメッセージを返してきたので、これはどうしたことかと思ってちょっと考えてみました。

結論から言うと、日本の右寄りの人が採用する論拠は「日本のやったことは相対的な尺度で他の国よりマシ」とか「日本だけが他国に比べて相対的な尺度で不当な扱いを受けるのはおかしい」という”相対的な尺度”の話が多いように思うのですが。これって日本が、絶対的な善悪の基準が行動規範となる「罪の文化」ではなく、「人前で恥をかかない」という他人との相対的な関係が行動規範となる「恥の文化」の国であることを如実に物語っているように思うのです。ええっと。例によって以前もご紹介した「菊と刀」という日本文化論の古典的名著の受け売りにちょっとアレンジを加えただけなんですけどね。
恥の文化では「俺だけが捕まる」というのは「自分だけ恥をかかされた」という点において由々しき事態なんでしょうね。だけど、それがスピード違反という罪を帳消しにしてもらうに相応すると考えるのは日本人(の一部)だけなんじゃないのでしょうか?少なくとも罪の文化では「でも君のやったこと罪でしょ?何を居直ってるの?」ってなるんじゃないかと思います。
他にも、右寄りの人の言うことって「その当時の基準で言えば帝国主義的な侵略は普通のことだった。日本だけ非難されるのはおかしい。」「欧米列強はアジア植民地を単に奴隷として搾取しただけだったが、日本は原住民を国民と位置付けて植民地の子供達に対してちゃんと教育をほどこした。」「従軍慰安婦があったおかげで日本軍の民間人への性暴力は最小限で済んだ。そういう制度を持たなかったソ連の民間人への性暴力はひどいものだった。」と、他者との関係を引き合いに出して当時の日本を正当化しようとする印象があるのです。繰り返し言いますが、この語法が正当な自己弁護だという風に罪の文化の人々には認識されないんじゃないかなと思うのですよ。「罪は罪として認めて謝れ」というのが罪の文化の考え方なんじゃないでしょうか。

アメリカが橋下徹に対して毅然とした態度を示してきた理由も、「戦争を理由に女性の尊厳を踏みにじる」という「罪」に対する居直りともとれる姿勢をアメリカ人の罪の文化では許容できないということなんじゃないかと思います。特にアメリカっていう国はいまだにアフガンやイラクに軍隊を派遣して現役で戦争をやっている国です。戦争を継続するためには彼らは「正義の軍隊」である必要があるので、「アメリカだって沖縄占領時代は好き勝手やってただろ?お前らだって一緒じゃん?性暴力は戦争につきものだろ?」と言われて同意するわけありません。
安倍晋三の「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う。」という言葉も、「絶対的な善悪の価値基準=罪の文化」を否定して自己弁護につなげようとしたから諸外国から非難を受けたんじゃないかと思います。

別に僕は「日本は恥の文化だからダメだ」とか言うつもりもなければ「罪の文化が正しい」と言うつもりは毛頭無いです(韓国は「恨(ハン)の文化」らしくて、これはとても深い上にややこしくなるので今回は省略しましたけど)。しかし、相手と自分の何がどれだけ違うかということを理解しないまま「なんで俺だけソンしなきゃいけないの?」て言ってると、ただ他国との軋轢が増していくだけで、結果的に右寄りの人が好んで使う「国益」を損ねるだけになっちゃうんじゃないですかね?実際のところ橋本徹はそうやって日本を嘲笑の対象にしてしまいました。僕はそのことが我慢なりません。だってほら、僕だって「恥の文化」で育ってますから。
自分達がどういう「文化=民族的奇習(これも内田樹の日本辺境論からの受け売りです)」を持っていて、それが他人とどう違うのかということを理解した上で、「わかりあえないところから」相手と対話するそういうのを国際感覚と呼ぶのではないでしょうかね。

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