2013年6月9日日曜日

「分かり合えることには限界がある」ということを分かってもらいたいというパラドクス

平田オリザの本はわかりあえないことからニッポンには対話がないというたった二冊しか読んだことないのですが。この二冊に通底しているテーマは、日本人はコミュニケーションを「分かり合うこと」と位置づけてしまうけど、異文化間コミュニケーションは「分かり合えない同士が妥協点を探っていくような作業」である、ということなんじゃないかと思います。そのことをしみじみと実感するようなことに日本に帰ってきてから頻繁に直面します。

といっても僕が日本人に対して引き合いに出せるのはせいぜいスペイン人くらいなのですが。彼らのコミュニケーションは「人が分かり合えることには限界がある」という諦めが根底にあるように思います。それが暗黙の大前提として存在している上で、お互いに意見を言いあって妥協点を探るなり結論を出すなり、そういう作業をすることをコミュニケーションと考えているように思います。
みんな意見が違うのは当たり前なので、反対意見を言うときに特に気を使ったりすることはありません。また、最後にみんな同じ見解に達するなんて事は最初から期待していないのである程度話したら割とさっくり結論を出します。そして、彼らはこういう一連の作業を当たり前のことのように笑顔でやります。

日本人の会議が長い理由の一つに「分かり合えることには限界がある」ということを認めようとしない、別の言い方をすると「たくさん時間をかけて話し合えばわかってもらえるはずだ」という物の考え方が根底にあるように思うのです。そしてさらに言うと、彼らは「分かり合わなければ前に進めない」と思ってるようにも見えるのですが。結論に対して納得してなくてもとりあえず決定には従うということは実は全然可能な事なんですけどね。

とりわけ厄介なのは、「正義」を背にして「正論」を展開する「正義の人」タイプの日本人で。こういう人って、口で言ってることは当然ロジックとしては筋が通っているのですが。「筋が通っている=正義」だから自分の主張は歓迎とともに受け入れられるべきだと信じて疑っていない気配を感じるのでホント困ります。こういう人の言ってることは「正しい・正しくない」で言えば確かに「正しい」のです。しかし、「正しい」ことはたくさんあって、彼らの言ってることは「たかが正しいことのうちの一つ」でしかなかったりするのですが。「粘り強く説得して最後はわかってもらう」「最後まであきらめない」なんていう日本人の好きそうなストーリーを信じて自分の正義を振り回した結果、「自説に都合のいい要素を次から次へとエンドレスに並べ立ててとにかく譲る気が無い人」っていますよね。ねぇ安西先生?

「納得していないけど結論に従う」というのは民主主義で国を成立させるために重要な資質だと僕は思うのです。アメリカでもフランスでも、大統領選挙のときは投票する候補をめぐって国が割れます。当然です。割れなきゃ選挙する意味が無いですから。しかし、一度大統領が決まれば、散々ネガティブキャンペーンを行った反対派もある程度は大統領に対して敬意を表しているように思えます。日本にはこういう習慣は、少なくとも今のところ無いと思います。どっちかと言うと、政敵は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になりがちなんじゃないかなと思います。別の言い方をすると、日本にはケンカのしかたにルールが無いように思うのです。

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