2017年12月3日日曜日

貴乃花親方の抱えていいる病のようなものについて

これを書いている現在は、「日馬富士の引退会見から一日明けたけど、いまだにテレビは執拗にこの問題を報じている」という状況です。この問題にこれだけテレビが血道をあげて騒いでいるのは、国会やモリカケ問題などをマスキングする意図があるんだろうとは思いますが。この件に関しては、ここ数年日本に慢性化している「正義を振りかざしたメディアによるリンチ」に国民全体がある程度同調して乗ってきているようにも見えます。
というのも、今回の件では登場人物全員が「やんわりと悪者」として扱われています。暴行事件の当事者であるモンゴル人力士はもちろんのこと、貴乃花親方の対応にも批判が集まっています。平成の若貴ブーム当時は貴乃花親方は常にワイドショーの常連だったので、貴乃花親方が連日テレビを賑わせている姿には既視感を禁じ得ない人も多いのではないでしょうか。たぶん、当の貴乃花親方自身もある程度その自覚はあるんだろうと思います。
貴乃花親方の立ち振る舞いを見ていると、どうしてもここ数年日本に暗い影を落としている「反知性主義」の典型例のように見えるのですが。貴乃花親方の反知性主義は、その「純度」のようなものにおいて橋下徹とか安倍晋三よりもはるかにタチが悪いんじゃないかと思うのです。例えば、安倍晋三はともかく、少なくとも橋下徹は自分の邪悪さについてある程度は考量できる能力がありそうに見えますが。貴乃花親方は「自分の邪悪さについて検討する」というような習慣とこれまで一度も縁が無かったんじゃないかと思えてしまうのです。つまり、彼は「自分は正義だと信じて疑っていない人」に見える…それをさらに簡単な一言でいうと「でっかい子供」なんだかと思います。

貴乃花親方について考えるにあたって、まず彼が親方になった経緯から振り返ってみましょう。貴乃花は引退後も現役時代の四股名のまま親方になれる”一代年寄”として親方になりました。この一代年寄という制度は特別な功労者にしか与えられない特権で、過去を振り返っても大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花くらいにしか制度適用対象になっていないそうです。なぜこの話を持ち出すかと言うと、この経緯が彼の有り様に大きな影響を与えているように思えてならないのです。
通常、相撲の親方になるには年寄株という「親方になる権利」を手に入れなければなりません。この年寄株と親方としての名前が対応しているので、引退した力士は親方になるにあたって、「ナントカ親方」という名前に変わるわけです。これは昔の人が出世すると立場に応じて名前を改めていたのと同じような話なのですが。立場とともに名前が変わることは、役割に相当した立ち振る舞いをする、つまり"成熟"を促す上で意味があるんだと思います。
貴乃花親方に明らかに欠けているものの一つは、こういうプロセスを経てもたらされるべき”成熟”なのではないでしょうか。もしも彼が親方になるにあたって名前が変わってたら、今回の貴の岩暴行事件に対してもう少しマトモな対応ができたんじゃないかと思います。例によってこのあたりで僕が言いたいことは内田先生の受け売りなので、それについて言及しているサイトから引用してみます。
武士の場合は元服したら名前を換えますし、商人でも屋号のある場合は「第10代なんとかざえもん」というように社会的立場を表す名前になります。
これらの名前はその人の個性や独自性よりはむしろ非個性、代替可能性を示しています。つまり今聞くと大変不思議なことですけれど、「余人を以て換えることができる」というのが伝統的には成人=社会人の条件だったのです。
でも、これは卓見ですね。
「余人を以て換えることのできる人間になる」ことをめざす自己形成って。
これって言い換えると「自己評価と外部評価の乖離がなくなった状態」ということですからね。それが「大人の条件」である、というのはよくできた話です。

大相撲の世界は未だに一般常識からかけ離れた不条理や不合理が横行していて、叩けばいくらでも埃が出てくる。勿論それらは”良い”わけではない。だからといって、いきなり改革しようとすることは大相撲自体を壊しかねない。大相撲というシステムを改革するためには、「性急な改革を叫びたいのを自制しつつ、現存するシステムと折り合いながらどうダメな部分を変えていくかを考える」という手順を踏む必要があるんだろうと思うのですが。貴乃花親方はこういう姿勢を徹底的に拒否しています。相撲協会との話し合いを一切拒絶して、「診断書」や「警察への被害届」など「相撲界の外側の一般社会の規範」によってのみ自分の立場を正当化しようとしています。
これは「僕ちゃんの正義の中に閉じこもりたがる子供」の態度そのものだと思います。「大相撲の伝統」というのは良くも悪くも一般社会の常識と乖離していることと不可分であり、大相撲を監督する立場に立つ「親方」には、異界のルールの範囲内で異界を統べることがまず必要なのだと思うのですが。今回の貴乃花親方の対応を見ていると、彼にはその資質が無い、というより、そもそも異界のルールに最初から付き合う気がないように見えるのです。

時津風部屋での暴行死亡事件以降、朝青龍の暴行事件や八百長騒動など、今回と同じようなレベルでの騒動が度々発生してきましたが。このような騒動が起こる度に安易に「一般社会の常識」の観点から大相撲を批判することは、結果として大相撲を国技たらしめている「強さの幻想」をどんどん損なっているように思います。これを繰り返していくと、大相撲は「単なる普通のスポーツ」に少しずつ漸近していくのではないでしょうか。
やや脱線しますが、力士の髷は「人ならざる者」であることの象徴であり、それ故に彼らは常人の世界観から逸脱した「強さ」という幻想を背負っているわけです。例えば、朝青龍が「腰の骨が折れている」と言って休場している間にモンゴルでサッカーをやっていて問題になったことがありましたが。「朝青龍は腰の骨が折れていてもサッカーができるほど強い」くらいに考える方が、彼らの背負っている幻想に対しては誠意のある態度なんじゃないかと僕は思います。貴の岩の件に関しても「力士は強いんだから、ビール瓶で殴られたくらい大丈夫」と、やせ我慢でもいいから言って見せるのが相撲の親方としてあるべき姿なのではないでしょうか。

貴乃花親方の今回の件に関する一連の立ち振る舞いは、フロイド的な観点からは「『大相撲という父』に対する父殺し」という風に読めると思うのですが。これについて書こうとしたらまとまりがなくなってしまったのでまたの機会に。。
最後に故・ナンシー関の昔のコラムから引用しておきます。
まるで大河ドラマのように進んでいく「花田家物語」である。しかし、どうもこの「物語」は違うのではないか、という気がしないだろうか。世間が、好意的に読んであげすぎるような気がする。二人の初土俵の時、こっそり柱の陰からおかみさんが見守るのはいいんだけど、おかみさんのすぐ後ろにテレビがいる。おかみさんナメの土俵とか撮っているし。あと「仲よし兄弟」もいい話だけど、新婚の兄の構えた同じマンションの真下に弟も引っ越してくるって、ものすごくへんである。仲よし、で済む話か?あそこの家、へんだ。
確かに今にして思えばへんだった。。この牧歌的な時代の後、貴乃花親方は謎の整体師に洗脳されたり、「若乃花の相撲には基本がない」と言いだしたり、徐々にダークサイドへ落ちていきました。そしてついに今回の事件で完全にヒール(悪役)のポジションに辿り着きました。「花田家物語」という大河ドラマは、若貴フィーバー当時には誰も予測しなかった展開を迎えています。

0 件のコメント:

コメントを投稿