2015年11月29日日曜日

市民のいない日本に蝶が舞う

先日、大阪に住んでいる大学時代の同級生と二人で飲む機会がありました。僕は(外国に行ったりで色々人生おかしくなったけど)日本の田舎企業のエンジニア、一方向こうは都会で外資の国内営業(でも英語なんてぜんぜん使わない)と、お互いにカスりもしない世界で暮らしているので、会ってみると普段の生活の中では(話せる相手がいなくて)誰にも話せないようなことまで含めて色々と話しました。こういう同級生の存在がありがたく思えるのは、なんだかんだいって歳をとったなぁと思いました。
その一方で、お互い40手前にもなると日本人どうしで意見の違いを真正面から議論するのがもう難しくなってしまったのも感じました。というのも、件の同級生の口から「SEALDsとかあんなことやってたって世の中は何も変わらないよ。」という一言が出たのです。このときは特に反論せずにそのまま流したのですが。彼の口からその言葉が出た瞬間に「あー、やっぱりそうなんだ。。」と少しうなだれてしまいました。

彼の言ってることはつまり、「自分の意見を持つということにそもそもこだわりが無くて、自分は多数派に同調していたい」と自己申告しているように僕には聞こえました。おそらく日本人の大半はこういう人達で、安倍政権がこれだけ続いているのもそれが理由なんだろうというのはなんとなく分かってはいたのですが。日本人は普段政治の話を人前でしないので、具体的に面と向かってそういう人に触れる機会が今まで全く無かったのです。だから、いざ実際目の前に現れると「あー、やっぱりそうなんだ。。」と少しうなだれてしまったわけです。
多数決による民主主義という制度は不可避的に「負ける人達」を作り出します。つまり、民主主義という制度は「負ける人達」になることを覚悟の上で自分の意見を主張する人達によって担保されているわけです。政治的立場の違いからSEALDsを批判するのはまだ分からんでもないですが、件の同級生も含めてSEALDsを批判する人達はSEALDsが政治的態度を社会に表明していることそのものを批判したがっているのではないでしょうか。

この話を簡単な一言に言い換えると、日本という国には「市民」がいないのです。いないって言ったら言い過ぎかもしれませんが、「市民」という意識が日本人にはそもそも希薄なのではないでしょうか。ここで言う「市民」というのは独立した個人として自分の頭で考えて政治的態度を決める責任を自身に課した人のことです。
とりあえず自分の知る限りの話ですが、欧州では市民としての意識がない人は大人としてみなされない風潮があります。たとえば、職場でお昼ごはん食べてるときのカジュアルな会話でさえ政治の話はごく当たり前のように出てきます。彼らの世界観では「人は意見が違って当たり前」なので意見が合わないことがほとんどですが、だからといってケンカになったりまではしません。そうやって市民が意見の違いをお互いに主張しあいながら社会を形成しているというコンセンサスがあるので、どこかしら意見の違いを楽しんでいるかのような雰囲気さえ感じます。

「負ける人達」を不必要だする社会を突き詰めると、中国のようにずっと一党(共産党)独裁の政体になります。ネトウヨなどの一部の人々は本気で自民党独裁の政治体制を願っているんでしょうが、日本人の大半は「多数派に同調していたい」のであって、「ずっと同じ政体が続いて欲しい」と思ってるわけではないんだろうと思います。
つまり日本では「『多数派に同調していたい人』が多数派である」のです。だからこの国では、2009年の民主党への政権交代の時のように突然雪崩を打ったように多数派の支持が逆転することがあります。カオス理論で言うところのバタフライ効果のように、蝶の小さな羽ばたき一つが大きな気象変化を起こすようなことがこの国の政治ではしばしば現実に起きてしまうわけです。
ある日突然に極端から極端に振れてしまうというのはあんまりよろしくない気がする反面、まだ振れ幅があるうちは民主主義というシステムがまがりなりにも機能しているとは言えるだろうと思います。これが機能しなくなると戦前の日本のように最後は壊滅的な結果をもたらすというのは歴史が教えているとおりです。

将来選択可能なオプションを残すためにも、いろんな蝶が必要だと僕は思いますよ。

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