2013年5月31日金曜日

挨拶ができないとダメかな?

日本に帰ってきてからもう9ヶ月経った。さすがに最近は話しかけられてとっさに「Si」と応得てしまうこともなくなってきた。けど、帰国直後はそりゃありとあらゆるものに違和感を感じて辛い思いをしたものだった。

例えば照明。日本はどこにいっても白色蛍光灯の照明が煌々としていて、帰国直後は家電店やコンビニにいると目が痛くて辛かった。今住んでる家も入居直後に全ての照明を白色系から暖色系に置き換えた。目が痛くて辛かったからだ。今でも白色蛍光灯が煌々としている僕の職場はちょっと苦手だ。ていうか、原発があれだけの事故を起こしたにもかかわらず、こんなに電気を使ってまで夜を明るくしたがるのが僕には未だに理解できない。

みんな日本語で話しているし、自分が日本語で話していることが理解されてしまうのも帰国当初は気持ち悪かった。スペインにいる当時は奥さんと僕の会話は誰にも理解されないし、道行く人の会話も聞こうと思って聞かなければ分からなかったのに、日本では日本人の会話は嫌でも耳に入ってくる。帰国当初はご飯食べに行った先で隣のテーブルの日本人の会話がどんどん飛び込んでくるのがすごく辛かった。

未だにどうしていいのか分からないことの一つに挨拶というのがある。スペインという国では、例えば買う意思が明確でなくてもお店に入るときには「Hola!」と必ず挨拶するのが当たり前だったり、エレベーターに見知らぬ人が乗っていてもとりあえず「Hola!」と挨拶して入っていく。つまるところ、全ての挨拶が「クラッチが噛み合ってる」ことが普通なのだ。これにたいして日本人の挨拶は「クラッチが噛み合ってなくて一方通行も普通」という雰囲気を感じることが多い。例えばコンビニに入ったら店員は「いらっしゃいませ」と言うけどこれに対して何か応えることは普通誰もしない。店員だって何か言い返して欲しいとはたぶん思ってなくて、つまるところ終始クラッチが噛み合って無いことを望んでるように僕には思える。これが悪いと言うつもりは毛頭無いし、コンビニはこれでもまぁ別にいいと思うんだけど。困るのは職場での挨拶だ。

朝、いつもと同じように会社に来て、普段毎日顔を合わせてる人が隣の席にいて、彼は画面に見入っている。彼は挨拶されることで集中を乱されたくないのかもしれない。ていうか、挨拶したところでクラッチが噛み合った挨拶を返してくるとは到底思えない。どうしようかなと思った挙句に黙って席につくと、隣の席から小さな声で「おはようございます」みたいなのが聞こえてくる。当然こっちを見る気配なんて無い。だったら挨拶なんてしてくれるなと思う一方でやっぱりなんだかちょっと自分が悪い事をしたような気分になる。こういうとき、彼をさらに下回る小さな声で「おはようございます」と独り言のようにつぶやくことになる。

一方で、会社のオフィスを掃除する清掃業者のおばちゃん達はまるで黒子のようにあたかもそこにいないかのように振舞ってくるんだけど、僕はこの人達に朝会うとなぜか積極的に挨拶してしまう。なぜだかは自分でも良く分からない。強いて言えば、彼女達の態度が発する「私はここの成員ではありません」というメッセージに対して「いや違う、君も毎日ここで働いてるメンバーだよ」と言いたい気分になるからだろうか。そういえばスペインの職場の掃除のおばちゃんはいつもニコニコしててやたらと僕に話しかけてきたなぁ。

お互いに違和感なく挨拶が成立するには、挨拶の仕方やタイミングに対する常識が共有されていることが不可欠だということはスペインから日本に帰ってきてから良く分かった。そして、僕のそれはスペインで2年過ごして帰ってきたら普通の日本人とはどこか違ったものになってしまったようだということもなんとなく分かった。よく「挨拶の出来ない奴はダメだ」と言う人がいるけど、こういう人は自分の考える挨拶の仕方やタイミングに対する常識は世界共通で正しいとされていると信じて疑っていないだろうという点においてすごく幸せな人なんじゃないかと思う一方で、”挨拶ファシズム”によって世界を敵と味方に簡単に分けすぎのような気がする。当のご本人は「挨拶の出来る自分」を社交性の高い人間と位置づけている気配を感じるんだけど、実際には「挨拶の仕方」という一面だけで人を簡単に判断して切り捨ててしまう閉鎖的な人のように僕には思える。

0 件のコメント:

コメントを投稿